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札幌丘珠事件 [2021/04/24 14:57] moepapa 作成 |
札幌丘珠事件 [2025/01/06 20:07] (現在) moepapa |
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====== 札幌丘珠事件 ====== | ====== 札幌丘珠事件 ====== | ||
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+ | まだ明治も初頭の、情報共有や熊への警戒、駆除体制など、なにもかもが未熟だった状況で起きてしまった | ||
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+ | **札幌丘珠事件(さっぽろおかだまじけん)** | ||
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+ | 獣害史上4番目に大きな被害を出したとされる熊害事件です。 | ||
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+ | 逆にまだ江戸時代が近かったので、武士でもいれば熊と渡り合えたのでは??とか勝手に思ってしまいますが、やはり野生の獣相手ではプロではないからどうしようもないんでしょうかねえ。 | ||
+ | ※北海道の農村に侍がいたかは別として | ||
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札幌丘珠事件(さっぽろおかだまじけん)とは、1878年(明治11年)1月11日から1月18日にかけて北海道石狩国札幌郡札幌村大字丘珠村(現: | 札幌丘珠事件(さっぽろおかだまじけん)とは、1878年(明治11年)1月11日から1月18日にかけて北海道石狩国札幌郡札幌村大字丘珠村(現: | ||
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===== 事件の経緯 ===== | ===== 事件の経緯 ===== | ||
- | 福岡大学ワンダーフォーゲル同好会所属の学生A(リーダー、20歳)、B(サブリーダー、22歳)、C(19歳)、D(19歳)、E(18歳)の5人は1970年7月12日9時に列車で博多駅を出発し、14日に新得駅へ到着した。14時半に芽室岳へ入山。そのまま芽室岳からペテガリ岳へ日高山脈を縦走する計画だった。 | + | 札幌市は2021年のピーク時に人口約198万人に達した東北以北最大の都市だが、事件当時は和人の定住者が現れてから20年あまり、市街地の整備や農地の開墾は急ピッチで進められていたものの、市域を少し出れば原始そのままの大森林や草原に覆われていた。人口は、現在の札幌市中心部にあたる「札幌区」で3, |
- | 25日、中間地点であるカムイエクウチカウシ山 (標高1, | + | ---- |
- | 26日の早朝、ふたたびヒグマが現れテントを倒した。Aの指示でBとEが救助を呼ぶため下山を始めた。その途中で北海学園大学のグループや鳥取大学のグループに会ったので救助要請の伝言をし、BとEは他の3人を助けるため山中へ戻った。 | + | ==== 第一の事件 ==== |
- | BとEは昼ごろに合流し、5人でテントを修繕した。16時ごろ、寝ようとしていた彼らのもとにヒグマが現れ居座った。彼らは鳥取大学のテントへ避難するため、九ノ沢カールを出発し歩き続けた。しかし、鳥取大学や北海学園大学のグループはヒグマ出没の一報を受け、すでに避難したあとだったため、仕方なく彼らは夜道を歩き続けた。 | + | 1878年(明治11年)1月11日、爾志(にし)通(現在の札幌市中央区南2条)在住の猟師・蛭子勝太郎が郊外の円山山中で、冬眠中のヒグマを発見した。早速狩ろうと試みたものの撃ち損ねてしまい、逆襲を受けた勝太郎は死亡した。冬眠を妨げられたヒグマは、飢えて札幌の市街地を駆け抜けたため、17日、札幌警察署警察吏の森長保が指揮を執る駆除隊が急遽編成された。 |
- | 不幸にもヒグマは彼らを追いかけ、追いついた。ヒグマはまずEを襲い絶命させた。Cは他のメンバーとはぐれてしまった。彼らは一目散に逃げ、その夜はガレ場で夜を過ごした。27日早朝、深い霧が出ていたため視界は悪かった。下山する途中でヒグマはまた現れた。Aがターゲットとなりそのまま襲われて死亡した。BとDは無事下山し、逃げ延びた2人は五の沢砂防ダムの工事現場に駆け込んで車を借り、18時に中札内駐在所へ到着した。 | + | <color # |
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+ | 同日、豊平川の川向こうに当たる平岸村(現在の札幌市豊平区平岸)で件のヒグマを発見し、追撃を開始する。しかしヒグマは月寒村(現在の豊平区月寒)、白石村(現在の札幌市白石区)と逃走。再度豊平川に向かうルートを取ったため、駆除隊も雪上に残る足跡を頼りに後を追う。そして再度豊平川を渡り、雁来(現在の札幌市東区東雁来)までは確認したが、猛吹雪のため見失ってしまった。これらの地は現在でこそ一面の住宅街だが、当時は畑が拓かれ始めたばかりの大森林地帯だった。 | ||
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+ | ==== 第二の事件 ==== | ||
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+ | 札幌区の北東に位置する丘珠村(現在の札幌市東区丘珠町)。地名の「おかだま」は、アイヌ語の「オッカイ・タㇺ・チャラパ」(男が刀を落としたところ)に由来する。この地は後に伏籠川の自然堤防が育んだ良質な土壌を生かしたタマネギ栽培で名を成すことになるが、当時は古木が延々と連なる森林地帯が広がっていた。その中に細々と拝み小屋を結ぶ数百人ほどの村民たちは、その多くが札幌区に売り出す木炭の製造で生計を立てていた。明治4年ころこの地に入植した堺倉吉(事件当時、44歳)と妻・リツ(利津)(事件当時、36歳)の夫婦もそのような開拓民だった。リツはもともと南部の生まれで19歳の折に「蝦夷地」に渡って倉吉と結ばれるものの箱館戦争の混乱に巻き込まれ内地に戻ることはかなわず、結局、夫婦で丘珠に入植したのだった。二人は周囲の村民同様に寒風舞い込む拝み小屋の生活に耐えつつ、炭を焼いては札幌区に売り出す生活に勤しむ。やがて夫妻には待望の長男・留吉が生まれ、貧しい生活にも燭光が灯りつつあった。 | ||
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+ | 17日深夜、円山から白石、そして雁来へと逃走を重ねた件のヒグマが、突如として堺一家の小屋を襲ったのである。異変を察知して起き出した倉吉は、筵の戸を掲げたところで熊の一撃を受けて昏倒。妻・リツは幼い留吉を抱いて咄嗟に逃げ出したものの、後頭部にヒグマの爪を受けてわが子を取り落してしまった。リツは頭皮をはぎ取られる重傷を受けつつ、伏籠川対岸の雇い人・石澤定吉に助けを求めるが、その間にヒグマは雪原に投げ出された留吉を牙に掛けていた。結果として倉吉と留吉が食い殺され、リツと雇い人は重傷を負った。 | ||
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+ | 18日昼、件のヒグマは駆除隊によって付近で発見され、射殺された。駆除に功のあった佐々木直則、渋谷永貞、武田守約の3人には、日当50銭のほか特別手当として2円が支給された。 | ||
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+ | ==== 被害者の性別と内訳 ==== | ||
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+ | 『札幌事件簿』はじめ従来に流布していた書籍の記述では、加害熊が丘珠村の堺一家を襲ったおりの死者、重傷者は「死亡:堺倉吉、留吉」「重傷:リツ、雇人(女性)」とされていた。だが近年、北海道公文書館『開拓使公文録』の『明治十一年 長官申届上申書録』より発見された文章によれば、丘珠村の惨事での被害者は「死亡:堺倉吉、留吉、雇人の酉蔵(男性)」「重傷:リツ、雇人の石澤定吉」で死者3名、重傷者2名になり、先の円山で死亡した蛭子勝太郎も加えれば死者4名、重傷者2名になる。 | ||
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- | 仲間とはぐれたCは鳥取大学グループが残したテントに駆け込み一夜を明かしたが、27日の8時ごろにヒグマに襲われ死亡した。Cは死ぬ直前まで様子や心境をメモに書いていた。28日、十勝山岳連盟の青山義信を現場隊長とし、帯広警察署署員や十勝山岳連盟、猟友会などからなる救助隊が編成された。さらに帯広警察署は、カムイエクウチカウシ山などの日高山脈中部の入山を禁止した。翌29日、早朝から捜索していた救助隊は14時45分ごろに八の沢カールの北側ガレ場下で2人の遺体を発見した。遺体は九州から捜索に加わっていた福岡大学ワンダーフォーゲル同好会会員によってAとEであることが確認された。 | + | ==== 解剖の顛末 ==== |
- | 29日16時半ごろ、ヒグマは八の沢カール周辺でハンター10人の一斉射撃により射殺された。亜成獣(3歳)の雌であまり大きくはなかった。30日にはCの遺体も発見された。雨天で足元が悪いことから遺体を下におろすことができず、31日17時に八の沢カールで3人の遺体は火葬にされた。八の沢カールには追悼のプレートがかけられ、そのプレートには「高山に眠れる御霊安かれと挽歌も悲し八の沢」と追悼の句が記されている。3人を殺害したヒグマは解剖されたが、体内からヒトや持ち物などは確認されなかった。このヒグマは剥製にされ、中札内村の日高山脈山岳センターに展示されている。 | + | 加害ヒグマはオスの成獣で、体長は1.9mもあった。警察署の前でしばらく晒し者にしたのち札幌農学校に運び込まれ、教授の指導のもと学生たちの手で解剖された。昭和8年(1933年)発行の『恵迪寮史』の記述によれば、その熊は全く脂肪がなかったという。おそらく冬眠に備えての食いだめができず、雪中では餌を求めることも叶わず、進退窮まった末に暴挙に及んだことは疑いない、と推察されている。 |
- | ===== 教訓 ===== | + | ---- |
- | 野生動物研究家の木村盛武は次の指摘をしている。 | + | ===== その後 ===== |
- | **ヒグマがあさった荷物を取り返してはいけない。** | + | このヒグマの剥製は開拓史博物館に仮保存された。そして事件から3年後の明治14年(1881年)9月1日、北海道行幸中の明治天皇の「天覧」に浴した。昭和初期に記された『明治天皇御巡幸記』ではこの時の模様を「物産課長以下玄関前に奉迎、課長御先導、陳列品を天覧あらせらる。前年丘珠村にて民家に入り人を喰ひし熊の剥製は殊に共奉員等の注目を惹きしと云ふ」と記す。剥製は北海道産最古のものとなっている。その後、ヒグマの胃の内容物をアルコールに漬けて保存したものとともに、現在でも北海道大学植物園に保存されている。事件の跡地は札幌市立丘珠小学校の敷地となった。 |
- | 彼らは最初にヒグマに遭遇した際、ヒグマにあさられた荷物を取り返したためヒグマから敵と看做された。ヒグマは非常に執着心が強い動物であるため、一度ヒグマの所有物になったものを取り返すのは無謀な行為である。 | + | |
- | **ヒグマに遭遇したらすぐに下山しなければいけない。** | + | 夫と息子を失ったリツは長らく入院し、不憫に思った行政側は彼女が再婚するまで扶助していた。北海道博物館には、老境に至ったリツの写真が残されている。この写真が撮影された明治43年(1910年)、札幌の人口は8万人に達していた。 |
- | 彼らはヒグマに遭遇したものの、身の危険をすぐには感じず下山しなかった。Aの母は北海道放送のインタビューで「カムイエクウチカウシ山はAが日頃から行きたがっていた山だったので、どうしても登頂したかったのかもしれない」と述べている。 | + | |
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- | **ヒグマに背を向けて逃げてはいけない。** | + | |
- | ヒグマは背を向けて逃げるものをイヌのように追いかける習性がある。たとえ敵ではないと認識していても、背を向けて逃げると本能的に追いかけるため非常に危険である。 | + | |
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- | **事前にヒグマに出会ったときの対処法をチェックしておかなければならない。** | + | |
- | 彼らはヒグマにあまり詳しくなかったので間違った対処をした。 | + | |
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- | **ヒグマは時間や天候に関係なく行動する。** | + | |
- | 彼らを襲った時間は朝から夜まで規則的ではなく、濃霧でも行動した。 | + | |
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+ | これ、事件というか、最初に冬眠中のヒグマを撃とうとしてミスった猟師がすべての戦犯ですよね。 | ||
+ | まず、冬眠して動かない熊を撃つのにミスるな、という話ですし、そんな腕でよく狩ろうとしたものだ。 | ||
+ | おかげで、何人もこいつのせいで人が死んだわけで、と言いたいところですね。 | ||
+ | 本人も熊の逆襲で亡くなってるので、責任とってるとも言えますが。 |