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札幌丘珠事件


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札幌丘珠事件 [2024/11/05 20:54]
moepapa
札幌丘珠事件 [2025/01/06 20:07] (現在)
moepapa
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 獣害史上4番目に大きな被害を出したとされる熊害事件です。 獣害史上4番目に大きな被害を出したとされる熊害事件です。
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 +逆にまだ江戸時代が近かったので、武士でもいれば熊と渡り合えたのでは??とか勝手に思ってしまいますが、やはり野生の獣相手ではプロではないからどうしようもないんでしょうかねえ。
 +※北海道の農村に侍がいたかは別として
  
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 札幌丘珠事件(さっぽろおかだまじけん)とは、1878年(明治11年)1月11日から1月18日にかけて北海道石狩国札幌郡札幌村大字丘珠村(現:札幌市東区丘珠町)で発生した、記録されたものとしては日本史上4番目に大きな被害を出した獣害事件。冬眠から理不尽な形で目を覚まされたエゾヒグマが猟師や開拓民の夫婦を襲い、死者3名、重傷者2名を出した。 札幌丘珠事件(さっぽろおかだまじけん)とは、1878年(明治11年)1月11日から1月18日にかけて北海道石狩国札幌郡札幌村大字丘珠村(現:札幌市東区丘珠町)で発生した、記録されたものとしては日本史上4番目に大きな被害を出した獣害事件。冬眠から理不尽な形で目を覚まされたエゾヒグマが猟師や開拓民の夫婦を襲い、死者3名、重傷者2名を出した。
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 ===== 事件の経緯 ===== ===== 事件の経緯 =====
  
 札幌市は2021年のピーク時に人口約198万人に達した東北以北最大の都市だが、事件当時は和人の定住者が現れてから20年あまり、市街地の整備や農地の開墾は急ピッチで進められていたものの、市域を少し出れば原始そのままの大森林や草原に覆われていた。人口は、現在の札幌市中心部にあたる「札幌区」で3,000人、後に札幌市に組み込まれることになる周辺の農村すべての人口を合計しても、8,000人に満たなかった。 札幌市は2021年のピーク時に人口約198万人に達した東北以北最大の都市だが、事件当時は和人の定住者が現れてから20年あまり、市街地の整備や農地の開墾は急ピッチで進められていたものの、市域を少し出れば原始そのままの大森林や草原に覆われていた。人口は、現在の札幌市中心部にあたる「札幌区」で3,000人、後に札幌市に組み込まれることになる周辺の農村すべての人口を合計しても、8,000人に満たなかった。
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 +==== 第一の事件 ====
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 +1878年(明治11年)1月11日、爾志(にし)通(現在の札幌市中央区南2条)在住の猟師・蛭子勝太郎が郊外の円山山中で、冬眠中のヒグマを発見した。早速狩ろうと試みたものの撃ち損ねてしまい、逆襲を受けた勝太郎は死亡した。冬眠を妨げられたヒグマは、飢えて札幌の市街地を駆け抜けたため、17日、札幌警察署警察吏の森長保が指揮を執る駆除隊が急遽編成された。
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 +<color #22b14c>この冬眠してる熊すら狩れない下手くそ猟師のせいで大勢の人が死んだという、ひどい人災ですね</color>
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 +同日、豊平川の川向こうに当たる平岸村(現在の札幌市豊平区平岸)で件のヒグマを発見し、追撃を開始する。しかしヒグマは月寒村(現在の豊平区月寒)、白石村(現在の札幌市白石区)と逃走。再度豊平川に向かうルートを取ったため、駆除隊も雪上に残る足跡を頼りに後を追う。そして再度豊平川を渡り、雁来(現在の札幌市東区東雁来)までは確認したが、猛吹雪のため見失ってしまった。これらの地は現在でこそ一面の住宅街だが、当時は畑が拓かれ始めたばかりの大森林地帯だった。
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 +==== 第二の事件 ====
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 +札幌区の北東に位置する丘珠村(現在の札幌市東区丘珠町)。地名の「おかだま」は、アイヌ語の「オッカイ・タㇺ・チャラパ」(男が刀を落としたところ)に由来する。この地は後に伏籠川の自然堤防が育んだ良質な土壌を生かしたタマネギ栽培で名を成すことになるが、当時は古木が延々と連なる森林地帯が広がっていた。その中に細々と拝み小屋を結ぶ数百人ほどの村民たちは、その多くが札幌区に売り出す木炭の製造で生計を立てていた。明治4年ころこの地に入植した堺倉吉(事件当時、44歳)と妻・リツ(利津)(事件当時、36歳)の夫婦もそのような開拓民だった。リツはもともと南部の生まれで19歳の折に「蝦夷地」に渡って倉吉と結ばれるものの箱館戦争の混乱に巻き込まれ内地に戻ることはかなわず、結局、夫婦で丘珠に入植したのだった。二人は周囲の村民同様に寒風舞い込む拝み小屋の生活に耐えつつ、炭を焼いては札幌区に売り出す生活に勤しむ。やがて夫妻には待望の長男・留吉が生まれ、貧しい生活にも燭光が灯りつつあった。
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 +17日深夜、円山から白石、そして雁来へと逃走を重ねた件のヒグマが、突如として堺一家の小屋を襲ったのである。異変を察知して起き出した倉吉は、筵の戸を掲げたところで熊の一撃を受けて昏倒。妻・リツは幼い留吉を抱いて咄嗟に逃げ出したものの、後頭部にヒグマの爪を受けてわが子を取り落してしまった。リツは頭皮をはぎ取られる重傷を受けつつ、伏籠川対岸の雇い人・石澤定吉に助けを求めるが、その間にヒグマは雪原に投げ出された留吉を牙に掛けていた。結果として倉吉と留吉が食い殺され、リツと雇い人は重傷を負った。
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 +18日昼、件のヒグマは駆除隊によって付近で発見され、射殺された。駆除に功のあった佐々木直則、渋谷永貞、武田守約の3人には、日当50銭のほか特別手当として2円が支給された。
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 +==== 被害者の性別と内訳 ====
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 +『札幌事件簿』はじめ従来に流布していた書籍の記述では、加害熊が丘珠村の堺一家を襲ったおりの死者、重傷者は「死亡:堺倉吉、留吉」「重傷:リツ、雇人(女性)」とされていた。だが近年、北海道公文書館『開拓使公文録』の『明治十一年 長官申届上申書録』より発見された文章によれば、丘珠村の惨事での被害者は「死亡:堺倉吉、留吉、雇人の酉蔵(男性)」「重傷:リツ、雇人の石澤定吉」で死者3名、重傷者2名になり、先の円山で死亡した蛭子勝太郎も加えれば死者4名、重傷者2名になる。
  
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-<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/ZG7hD4X8pK4" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen></iframe>+<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/d_098KPBtvE?si=X_Kyj1ROUnlHpWr1" title="YouTube video player" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" referrerpolicy="strict-origin-when-cross-origin" allowfullscreen></iframe>
 </html> </html>
  
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 </html> </html>
  
-仲間とはぐれたCは鳥取大学グループが残したテントに駆け込み一夜を明かしたが、27日8時ごろにヒグマに襲われ死亡した。Cは死ぬ直前まで様子や心境をメモに書いていた。28日、十勝山岳連盟の青山義信を現場隊長とし、帯広警察署署員や十勝山岳連盟、猟友会などからなる救助隊が編成された。さらに帯広警察署は、カムイエクウチカウシ山などの日高山脈中部の入山を禁止した。翌29日、早朝から捜索していた救助隊は14時45分ごろに八の沢カールの北側ガレ場下で2人の遺体を発見した。遺体は九州から捜索に加わっていた福岡大学ワンダーフォーゲル同好会会員によってAとEであることが確認された。+==== 解剖顛末 ====
  
-29日16時半ごろ、ヒグマは沢カール周辺でハンター10人の一斉射撃により射殺された。亜成獣(3歳)の雌であまり大きくはなかった。30日にはC遺体も発見された。雨天足元が悪いことか遺体を下おろすことができず、31日17時沢カール3人の遺体は火葬にされた。沢カールは追悼のプレートがかけられ、そのプレートに「高山に眠れる御霊安挽歌も悲し八沢」と追悼の句が記されてる。3人を殺害したヒグマは解剖されたが、体内からヒトや持ち物など確認されなかったのヒグマ剥製にされ中札内村の日高山脈山岳センターに展示されている。+加害ヒグマはオスの成獣で、体長は1.9mもあった。警察署しばく晒し者したのち札幌農学校運び込まれ、教授の指導のもと学生たち解剖された。昭和8年(1933年)発行『恵迪寮史』の記述、その全く脂肪がなったいう。おそらく冬眠に備えてだめできず雪中で餌を求めることも叶わず、進退窮まった末に暴挙に及んだ疑いないと推察されている。
  
-===== 教訓 ===== +----
- +
-野生動物研究家の木村盛武は次の指摘をしている。+
  
-**ヒグマがあさった荷物を取り返してはいけない。** +===== そ後 =====
-彼らは最初にヒグマに遭遇した際、ヒグマにあさられた荷物を取り返したためヒグマから敵と看做された。ヒグマは非常に執着心が強い動物であるため、一度ヒグマ所有物になったものを取り返すのは無謀な行為である。+
  
-**ヒグマに遭遇したらすぐ下山なければいけない** +このヒグマの剥製は開拓史博物館仮保存され。そして事件か3年後の明治14年(1881年)9月1日、北海道行幸中の明治天皇の「天覧」昭和初期記され『明治天皇御巡幸記』ではこ模様を「物産課長以下玄関前に奉迎課長御先導、陳列品天覧あらせらる。前年丘珠村て民家に入り人を喰ひし熊の剥製殊に共奉員等の注目を惹きと云ふ」と記す剥製は北海道産最古ものとなっている。そヒグマの胃の内容物をアルコールに漬け保存したととに、現在でも北海道大学植物園に保存されている。事件の跡地は札幌市立丘珠小学校の敷地となった
-彼らはヒグマ遭遇しのの、身の危険すぐには感じず下山なかったAの母は北海道放送インタビューで「カムイエクウチカウシ山はAが日頃から行きたがっていた山だったどうしも登頂したかったない」と述べている。+
  
-**ヒグマに背向けて逃げていけない。** +夫と息子失ったリツ長らく入院し、不憫に思った行政側彼女再婚す扶助していた。北海道博物館は、老境ったリツ写真が残されていこの写真が撮影され明治43年(1910年)、札幌人口8万人ていた。
-ヒグマ背を向けて逃げるものをイヌのように追いかける習性。たとえ敵はないと認識していても、背を向けて逃げると本能的に追いかけるめ非常に危険である +
- +
-**事前ヒグマ出会ったとき対処法をチェックしおかなければならない。** +
-彼らはヒグマにあまり詳しくなかったので間違った対処をした。 +
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-**ヒグマ時間や天候関係なく行動する。** +
-彼らを襲った時間は朝から夜まで規則的ではなく、濃霧でも行動した。+
  
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 </html> </html>
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 +これ、事件というか、最初に冬眠中のヒグマを撃とうとしてミスった猟師がすべての戦犯ですよね。
 +まず、冬眠して動かない熊を撃つのにミスるな、という話ですし、そんな腕でよく狩ろうとしたものだ。
 +おかげで、何人もこいつのせいで人が死んだわけで、と言いたいところですね。
 +本人も熊の逆襲で亡くなってるので、責任とってるとも言えますが。


札幌丘珠事件.1730807669.txt.gz · 最終更新: 2024/11/05 20:54 by moepapa