目次

スターリングラード攻防戦

史上最悪の被害を出した市街戦と言われている、第二次世界大戦中の、ドイツ対ソ連の、恐ろしい戦場のひとつです。

スターリングラード攻防戦(1942年8月23日~1943年2月2日)は、第二次世界大戦中の東部戦線で行われた最大規模の戦闘の一つであり、ドイツ軍とソビエト連邦軍の間で繰り広げられました。この戦いは、その激烈さと戦略的重要性から歴史上有名であり、多くの影響を残しました。

概要

スターリングラード(現在のヴォルゴグラード)は、ヴォルガ川沿いに位置し、交通や通信の要所であったため、戦略的に非常に重要な都市でした。ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーは、ソビエト連邦の南部を制圧し、石油資源の豊富なカフカス地方へ進軍するための足がかりとして、スターリングラードの占領を目指しました​。

初期の進撃

1942年8月23日、ドイツ軍は大規模な空爆を行い、スターリングラードへの進撃を開始しました。市内は激しい戦闘に巻き込まれ、多くの市民が犠牲となりました。

市街戦の激化

ドイツ軍とソ連軍の戦闘は市街地での近接戦闘となり、各建物や通りで激しい戦闘が繰り広げられました。特に有名な戦闘として、「パヴロフの家」の戦いがあり、ソ連軍はこの建物を死守しました 。

ソ連軍の反攻作戦:ウラヌス作戦

1942年11月19日、ソ連軍はウラヌス作戦を開始し、ドイツ軍の側面を攻撃して包囲網を形成しました。この包囲作戦により、第6軍のフリードリヒ・パウルス元帥率いるドイツ軍はスターリングラードに孤立しました 。

ドイツ軍の降伏

厳しい冬と物資不足に苦しんだドイツ軍は次第に追い詰められ、1943年2月2日、パウルス元帥は降伏しました。これにより、スターリングラード攻防戦はソ連軍の勝利に終わりました 。

戦闘の結果と影響

この戦いでの人的損失は非常に大きく、ドイツ軍は約30万人の兵士を失い、ソ連軍も数十万人の兵士と市民が犠牲になりました 。
スターリングラードでの敗北は、ナチス・ドイツの東部戦線での進撃を食い止め、ソ連軍の反攻のきっかけとなりました。この後、ソ連軍はドイツ軍を西へと押し返し、最終的にベルリンの陥落へと繋がる反撃を続けました 。

この戦いは、両軍にとって大きな心理的影響を及ぼしました。ソ連軍にとっては大きな士気向上となり、逆にドイツ軍にとっては大きな打撃となりました 。
スターリングラード攻防戦は、その規模と激しさ、そして戦争全体に与えた影響から、歴史的に非常に重要な戦闘として記憶されています。


詳細

スターリングラード攻防戦(スターリングラードこうぼうせん、英語: Battle of Stalingrad, 1942年6月28日 - 1943年2月2日)は、第二次世界大戦の独ソ戦において、ソビエト連邦領内のヴォルガ川西岸に広がる工業都市スターリングラード(現ヴォルゴグラード)を巡り繰り広げられた、ドイツ、ルーマニア、イタリア、ハンガリー、およびクロアチアからなる枢軸軍とソビエト赤軍の戦いである。

スターリングラードは元来ドイツ軍のブラウ作戦における副次的目標の一つに過ぎなかったが、戦略上の要衝の地であったことに加え、時のソビエト連邦最高指導者ヨシフ・スターリンの名を冠した都市でもあったことから熾烈な攻防戦となり、史上最大の市街戦に発展、やがては日露戦争の奉天会戦や第一次世界大戦のヴェルダンの戦いを上回る動員兵力、犠牲者、ならびに経済損失をもたらす野戦に拡大した。

緒戦は枢軸軍側の優位に進み、市街地の90%以上を占領したものの、最終的にはソ連軍側の反攻により、ドイツ第6軍を主軸とする枢軸軍が包囲され、降伏した。独ソ戦の趨勢を決し、第二次世界大戦の全局面における決定的な転換点のひとつとなった。米国の軍史家イヴァン・ミュージカントはこの戦を「ミッドウェイ海戦、エル・アラメインの戦い、第三次ソロモン海戦」と同じく第二次世界大戦の転換点であると位置づけている。

死傷者数はソンムの戦いなどの第一次世界大戦の激戦を遥かに超える規模で、枢軸側が約85万人、ソビエト側が約120万人、計200万人前後と見積もられた。街は瓦礫の山と化し、開戦前に60万を数えた住民が終結時点でおよそ9800名にまで激減。第二次世界大戦最大の激戦、また13世紀の「バグダッド包囲殲滅戦」(モンゴル帝国)などと並ぶ人類全史上でも屈指の凄惨な軍事戦であったと目されている。

背景

バルバロッサ作戦に着手したドイツ軍は、1941年12月に首都モスクワの攻略タイフーン作戦を試みたが、補給の限界や冬季ロシアという気象条件に遭遇して失敗した。一方、モスクワ前面でのドイツ軍の敗退を過大評価したスターリンは、追い討ちをかけるべく反転攻勢を命じ、ソ連軍は1月にレニングラードからクリミアまでの全戦線で攻勢をかけた。しかし、それは戦力や補給能力を超えたものであり、攻勢は失敗して戦線に若干の凸凹をつけた程度で終わり、雪解け期を迎えた。一方、ドイツ軍は大きな損害を出したものの、ノブゴロド、スモレンスク、ハリコフといった重要拠点を維持した。なお、ハリコフの南方にはソ連軍の大きな突出部が形成された。

雪解け期の間、独ソ両軍はさらなる戦略を検討したが、ソ連軍は突出部を利用して南北からハリコフを挟撃し、奪還するという春季攻勢を立案した。一方、ドイツ軍は夏季攻勢プランとして、ブラウ作戦を立案したが、その前の準備的作戦として、ソ連軍突出部を裁断するフレデリクス計画を策定していた。

両軍が次の展開に向けた動きを策定する中、先に作戦準備を完了したのはソ連軍で、南西方面軍(セミョーン・チモシェンコ元帥)は1942年5月、ハリコフ奪還を狙った春季攻勢を開始した。しかし、ドイツ軍の第6軍と第1装甲軍による突出部後方での南北からの挟撃により、突出部から前進したソ連軍の攻勢部隊は後方を遮断されて壊滅した(第二次ハリコフ攻防戦)。こうしてロシア南部戦域での独ソの軍事バランスはドイツ軍有利に傾き、ソ連軍はドン河を目指して撤退を開始することとなった。

ブラウ作戦発動

ブラウ作戦の第一段階ではドン川西岸でソ連軍を撃破し、第二段階では、攻勢軸を2つに分け、一つはスターリングラード近郊でボルガ河に到達し、一つは、ロストフを通過して、コーカサス地方を南下して、マイコープ、グローズヌイ付近の油田を占領し、最終的にはバクー油田を占領するものであった。背景には、前年の対米宣戦を踏まえ、できるだけ早くソ連を降伏に追い込みたいというドイツの戦争指導部中枢の思惑があった。さらにコーカサスの占拠により、当時世界最大級だったバクー油田からの石油供給を断ち切ることでソ連の戦争継続能力に打撃を与え、降伏に追い込むことを図った。

そうした中、作戦準備の最終段階となっていた6月18日に、第23装甲師団(第40装甲軍団隷下)の首席作戦参謀ヨアヒム・ライヘル少佐が、ブラウ作戦の命令書を所持したまま軽飛行機で敵状偵察を行ったが、敵陣内で乗機が撃墜されたうえ、機密文書の回収に失敗するという事件が起きた。これは、師団長はもちろんのこと、第40装甲軍団長および参謀長までもが軍法会議にかかるほどの重大事件で、その不首尾にヒトラーは激怒したが、変更する時間的余裕がないため作戦はそのまま進められた。

影響

コーカサス地方の制圧を目指した第1装甲軍などはソ連軍の抵抗と補給難からテレク河で前進が止まっていたが、ソ連軍のドン川西岸進出により、退路を断たれて壊滅する危険が生じた。しかし、マンシュタイン元帥の指揮に加え、スターリングラード包囲網にソ連赤軍が釘付けとなったため、ソ連赤軍のサトゥルン作戦開始は遅れた。ロストフをソ連軍が奪回したのは、第6軍降伏からわずか12日後の2月14日だった。この間に、クライスト上級大将の第1装甲軍などは、クバン橋頭堡を除いて、ミウス河まで撤退することができ、東部戦線南翼の崩壊という事態をなんとか逃れることができた。
ドイツ軍は第6軍のすべてと第4装甲軍の主力が包囲殲滅されるという敗北に終わった。戦傷を含めるとスターリングラード攻防戦を通じての人的損害は、ドイツ陸軍総兵力の4分の1に当たる150万人におよび、3500両の戦車・突撃砲、3000機の航空機が失われた。コーカサス地方からの撤収に成功したクライスト上級大将の第1装甲軍も膨大な重火器と車両を遺棄しており、ドイツにとっては数ヶ月分の生産量に相当する損失となった。

1941年開戦時における戦線全域における攻勢の失敗、1942年における地域限定の攻勢の失敗、これらはドイツ陸軍にとって戦闘能力についての限界を示す重大な事柄であった。

また、工業生産能力の限界からこれ以降、ドイツ軍は東部戦線において広い正面で攻勢をかけられる兵力を持つことができなくなり、決定的勝利を得るための攻勢を起こす機会は二度と得られなかった。ドイツ陸軍の次の夏季攻勢は、バルコンと呼ばれるような極めて狭い地域を巡る戦いになっている。もはやドイツ軍が開戦前に持っていた優位性は失われていた。

枢軸同盟国は、ルーマニア第4軍とイタリア第8軍がほぼ全滅、ルーマニア第3軍とハンガリー第2軍が部隊の大半を失うなど甚大な損失を出した。特にイタリアは北アフリカ戦線で劣勢になっており、ドイツからの離反を図ったガレアッツォ・チャーノ外相が更迭されるなどムッソリーニ政権に大きな動揺がみられた。くわえて親枢軸国であったトルコとスペインがドイツ側に立って参戦する可能性が完全に失われたため、軍事的のみならず政治的、外交的にもドイツの受けた打撃は甚大だった。

なおフランス、パリのメトロにはこの攻防戦での赤軍の勝利を記念して命名されたスターリングラード駅がある。