本来は壮絶な気象で、遭難系のニュースだったのですが、
その中で事故も起きて、死人まで出てしまっていますので、
かなり歴史に残る災害、そして事故になっています。
昭和38年1月豪雪(しょうわ38ねん1がつごうせつ)は、1962年(昭和37年)12月末から1963年(昭和38年)2月初めまで、約1か月にわたり北陸地方を中心に東北地方から九州にかけての広い範囲で起こった雪害(豪雪)。三八豪雪(さんぱちごうせつ)などとも呼ばれる。
北陸地方から西の日本海側を中心に、山陽地方の山間部、四国、九州などの太平洋側でも歴史的に稀な豪雪となり、戦後の日本のなかでも特に激甚な雪害をもたらした。
1962年(昭和37年)の12月25日付近を境に、まとまって降り出した雪は翌1963年(昭和38年)1月には本格的な大雪となった。全国的に気温が平年より3℃前後も低い異常低温となり、日本海側では繰り返し日本海寒帯気団収束帯に伴う発達した雪雲に襲われた。 さらに日照時間の短さが加わり、多くの地域で降雪のほとんどが融けずに蓄積することになった。豪雪の中心は新潟県・北陸地方から西の日本海側であった。寒波は1月末頃ピークを迎え、長岡市や福井市など、北陸地方の都市部でも積雪が2m以上に達した。中国地方西部の島根県・広島県・山口県でも未曾有の豪雪となり、山間部では数メートルに達した。
また本州の日本海側だけでなく温暖で雪の少ない九州地方や四国地方でも記録的な大雪となり、特に長崎県の五島列島や鹿児島県東シナ海側、愛媛県南予地方では最深積雪30cm以上に達し、阿蘇山や徳島県西部の池田町では最深積雪が1mを超えた。福岡県飯塚市では一冬の累計降雪量が185cmに達するなど、九州地方や四国地方でも山間部を中心に累計積雪量は1mに達した。
陸上自衛隊による消雪活動も行われ、火炎放射器を用いて雪を融かすという方法が取られた。しかし、「これはあまり効果はなかった」と当時の隊員たちは語っている。航空自衛隊は各地の救難分遣隊が出動し、出動後の帰途に就いた芦屋基地の芦屋救難分遣隊ヘリ(H-21)が1963年(昭和38年)3月16日に香川県三豊郡詫間町(現・香川県三豊市詫間町)で墜落して隊員10名が死亡した。
1963年(昭和38年)2月12日に気象庁は「昭和38年1月豪雪」と命名した。
北半球を取り巻く上空(500hPa面から圏界面付近まで)の偏西風は多少の蛇行を繰り返して赤道付近の暖気と極付近の寒気の平衡状態を保っているが1963年(昭和38年)1月から2月は蛇行が異常に大きくなり、アメリカ・ヨーロッパ・東アジアの3方面で極の寒気が大きく南下した(「三波型」と言い、大寒波の原因としてよく名前が出る)。
このためヨーロッパでは所によっては1月の月平均気温が平年より10°Cも下がった所もあり、例えばイギリスでは1659年以降で3番目に平均気温が低い冬であった。北米でも同じく7-8°C低下、東アジアでは台湾で5°C前後下がるほどの極端な寒冬となった。一方、暖気の北上域に入ったアラスカでは1月平均気温が14度も上昇している。昭和38年1月豪雪は、こうした世界規模の異常気象の一環であった(←ラニーニャ現象)。
日本では気温の低下は月平均2-3°Cにとどまったが1月を中心に非常に強い西高東低型の気圧配置が続き、日本海側では豪雪となって太平洋側では乾燥した晴天が持続した。
こうした冬型気圧配置が日本付近で強まったのは、例年アリューシャン列島付近にできる冬の低圧部(日本付近で発生あるいは通過した低気圧が最盛期を迎える海域)が西に偏り、日本のすぐ東の海上になったことも影響している。これによって日本の月平均気圧は異常に低下した。